「バリアがあっても、しっかりとサポートをすればいい」という考え方がある。駅での光景は、象徴的だ。階段では駅員さんが数人がかりで車いすごと持ち上げ、ホームに出れば車いすを押してもくれる。電車に乗るときも、ホームと床の間に段差があるので持ち上げてくれ、降りる駅では駅員さんたちがまるで貴賓のように出迎えてくれる。駅員さんは腰痛になりながらも、その対応はとても親切だ。
一人で駅まできた人が、駅の中では赤ん坊のように扱われてしまうのは不思議な話だ。『バリア・フル・ニッポン』(現代書館)の著者・川内美彦(かわうち・よしひこ)さんが、ある記事の中でこう書いている。
「ふだん私は、一人で行動している。駅に行くには私自身が行く手段や道順を考えて、一番都合のいい方法を選んでいる。しかし、駅に着くやいなや私は何もしなくてよくなる。正確にいうと、何もできなくなる。なぜ私は無力になるのか。私はそれほど無力なのか」
近所に、大型のディスカウントストアーが2軒ある。一つは家から5分ほどのところに、もう一つは15分ほどのところにある。二つの店舗は規模も品ぞろえもほぼ同じ。でも、よく利用するのは家から離れている方だ。実は、二つの店は駐車場に決定的な違いがある。近くの店は立体駐車場を、離れている方は青空駐車場を備えている。
大型のリフトを操作して車を上下に積み重ねて入れる立体駐車場は、係員がいなくては車を停めることができない。しかも、リフトには1台ずつしか載せられないため、わずか2台の順番待ちでも、駐車完了までに10分はかかる。さらに、買い物を終えた後にも同じことが繰り返される。ちょっとしたことではあるけれど、好きなように駐車できる自由さは少しぐらいの距離の差なんて帳消しにしてしまう。
最近は、車いす使用者専用のリフトを階段に設置する駅が増えている。手すりに沿って壁伝いに上ったり下りたりするもので、この機械を設置することはバリアフリーな対応だと思っていた。でも……。
実は、この装置を操作できるのは駅員さんだけで、車いすを使っている人が一人で利用することはできない。結局、人の力を借りなければ階段を上ることができないという点では、これまでと何も変わっていない。
変わったことは、車いすを持ち上げる作業が機械化されたこと。つまり、駅員さんのために設置された機械であることを見落としていた。駐車場が気に入らなければ気に入った駐車場がある店に行けばいいけれど、最寄りの駅はそうはいかないだけに深刻だ。
サポートすることを前提とした物作りや街づくりは「障害者は特別な対応が必要な人」という誤解を生んでしまう欠点がある。
「バリアがあっても、しっかりとサポートをすればいい」という考え方は、人の思いやりや優しさによってバリアを乗り越えようという温かい発想に見えがちだ。そこから生まれる誤解には悪意がなく、しかも無意識なだけに、心により深く、強固に根付いてしまいそうな怖さがある。
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