バリアフリーが生むバリア

バリアフリー観察記2002年

バリアフリーが生むバリア

 街の中の物理的なバリアが解消されるようになって、それと同時に、新しいバリアが生まれていると感じることがある。原因は、バリアフリーが常に障害者や高齢者だけの問題としてとらえられていることにある。車いす使用者専用のトイレを作ったり出入り口を用意したりしても、彼らを特別な人として扱っているという点では何も変わらないのではないだろうか。

 長野パラリンピックを観戦した際に泊まったホテルの隣には、公衆トイレがあった。大会に合わせて作られたものらしく新品で、入り口には車いすのマークが付いていた。「こうして環境が整備されるのはパラリンピック効果だね」と話しながら中に入ると、それは6畳ほどの広さの中に手すり付きの洋式トイレが一つだけある「スーパー車いすトイレ」だった。「これだけ広ければ使いやすいでしょう」と胸を張る設計者の誇らしげな顔が浮かんできたが、当事者たちは、かえって落ち着かないと苦笑いしていた。

 バリアフリーへの理解が広がって、通りがかりの人が障害がある人をサポートしている光景を見ることが増えた。ところが、複雑な心境だ。
 小さな段差を前に困っている車いす使用者がいるとする。少し様子を見てから手を貸すと思う。そして「ありがとうございました」と笑顔のお礼が返ってくる。以前なら、想像はここで終わっていた。でも、疑問がわいてきた。

 入り口に自動発券機を備えている近所の市営駐車場では、係の人がボタンを押し、入場券を手渡す“サービス?”が行われていた。運転席のドアを開けてボタンを押せば自分で入場券を受け取ることができるのに――。
 笑顔のお礼を返してくれる車いす使用者も、本当はこれと同じような不満を感じているのではないだろうか。この段差さえなければ自分で行けるのに、と。
 自分で簡単に操作できることをうやうやしく手伝ってもらうのは、あまり気持ちがいいものではない。度を越すと、子ども扱いされたときと同様の不満を感じる。そう考えたら「困っている人には手を貸す」という教えだけでは不十分に思えてきた。

 バリアフリーがムーブメントとして広がっていくのと同時に誤解が蔓延してしまったら、この問題はさらに解決が難しくなってしまう。早く本当のことに気付かなければ、お互いの溝は、さらに大きくなってしまう。

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Last Update : 2003/02/24