障害者製造株式会社

バリアフリー観察記2002年

障害者製造株式会社

「障害者は作られている」という言い方がある。「車いすに乗っているから障害者なのか、環境が整備されていないから障害者なのか」ということらしい。「卵が先かニワトリが先か」といった禅問答のように聞こえるけれど、そんなことはない。喫茶店には入ることはできなくても、マクドナルドのドライブスルーなら、足の不自由さなんて無関係にコーヒーやハンバーガーを買うことができる、といったようなことだ。だとしたら、車いすを使っているから障害者なのではなくて、不十分な環境がもたらす不便さが「障害」なのだというわけだ。

 工夫したり環境が整備されたりすることでできるようになることは、結構ある。目が悪くても、メガネがあれば子どもに読み聞かせをしたり本を作る仕事をしたりできる。耳の聞こえが悪くても、補聴器を付けるだけでごく普通に電話で話をすることができるようになる。視力や聴力が低いことは医学的な障害ではあるものの、ほんのちょっとしたことで支障なく生活できるわけだ。
 コンピューターのソフトを開発したり、企業のホームページを作成したり、文章を翻訳したりといった仕事は、インターネットを利用することで家にいながらできるようになった。IT(情報技術)は、車いす使用者が最も不便を感じている物理的な距離を一気に解消した。

 歩けなかったり、聞こえなかったり、見えなかったりするから障害者なのだろうか。エレベーターがあれば車いすに乗ったままビルの屋上まで行くことができるし、聞こえなくてもお客様相談室のメール相談担当者になることはできる。洋画の日本語字幕が見えなくたって「日本語吹き替え」版なら耳で鑑賞することができる。こんなことを考えていると、障害者という呼び方が何ともおかしなものに思えてくる。

 そこで新しい言葉を探してみたことがある。不十分な社会環境が原因で障害を受けている人だから「受障者」ならどうかと考えてみたけれど、結局、ボツにした。障害の原因を社会に置き換えたところで、両者の間に溝を作ってしまう点では同じだと考えた。

 障害は社会との関係で生まれたりなくなったりすると言えそうだ。社会が意図的に障害者を作っているとは思わないけれど、無意識に作ってしまっている現実はあるのかもしれない。
 結局、障害者に代わる適当な言葉は見つけられないままだ。別の言葉を使いたくなるような違和感があるけれど、バリアフリーやユニバーサルデザインの考え方を広げていくことで、障害者という言葉を使う機会を減らしていくことも、現実的な方法だと思っている。

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Last Update : 2003/02/24