遠慮というバリア

バリアフリー観察記2002年

遠慮というバリア

 重度の脳性マヒがある女性と1対1で話をしたことがある。顔をゆがめながらやっとの思いで声を押し出すため、言葉は相当に聴き取りづらい。聞き返すのも失礼かと思い、分かったようなふりをして適当に相づちを打っていた。そんな私に彼女は「分からないときは『分からない』と言ってくれていいんですよ」と話した。自分の言葉は初対面の人間が一度聞いただけで分かるものではないことは、彼女自身がよく知っていた。浅はかさが見透かされているようで、何とも恥ずかしい思いがした。

 しばらくして、街で電動車いすに乗った女性の横を通り過ぎた。彼女は脳性マヒがあるようで「どうぎょおっで、おもじろいね」と2、3度声を出した。「東京って、面白いね」と聞こえた。
 一瞬、だれに話しかけているんだろう? と思ったが、少し前を歩いていた女性が振り返った。「何?」と聞き返した彼女の口調は「聞こえないよ! はっきり言って!」と言っているように聞こえたが、思い過ごしだったようだ。彼女の言葉を理解したのか、うんうんとうなずき、二人はそのまま駅に向かって歩いていった。彼女たちの間には言葉が聞き取りにくいことを理解し合った関係ができ上がっているようで、何ともうらやましく思えた。

 障害について文章を書くとき、以前はどこか身構えたところがあった。「こんなことを書いたら障害者はどう感じるだろうか」といったことが常に気になった。文章を書く際の判断基準は、自分ではなく、頭の中に思い描いた障害当事者たちだった。それが高じてくると「耳にする」「目にする」「口にする」「手に取るように分かる」という言い方さえ、聞こえない人、見えない人、話せない人、手が不自由な人にはどう受け取られるのかと思ったりした。「聞く耳を持たない」などは、最たるものだった。
 おかしな言い方だけれど、自分には障害がないということが、障害がある相手への負い目になっていた。

 その疑問を脳性マヒがある一人の女性に投げかけると、彼女は笑いながらこんな話を聞かせてくれた。
 視覚障害者のバス旅行でのこと。ガイドさんは辺りの景色を紹介しようと、いつもの調子で「左をご覧ください」と言ってしまった。その瞬間「しまった!」という思いから黙り込んでしまったものの、乗客は、窓の外にはガイドさんが沈黙してしまうほどすごいものが見えているに違いないと思い「何が見えているのか早く説明して」と、興味津々だったという。そこに差別的な意図や偏見がなければ、ほとんどの人は気にしないものだと、彼女は教えてくれた。

 親友に「バカだな」と言われても少しも気にならないけれど、あいつに言われるのは納得できない、ということがある。同じことを言われても、言われる相手や言われ方によって、受け取る側の印象や気持ちがまったく違う。

 差別的な表現や不快感を与えてしまう言葉を使わないことは必要だけど、問題の本質は使うかどうかといったことではなく、お互いの距離が今より近付き、理解が深まる方法を考えることだと思う。私の場合は、自分自身が心の中に築いてしまった遠慮というバリアを、まずは崩していこう。

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Last Update : 2003/02/24