アメリカの番組制作会社が作ったドキュメント番組「音のない世界で」は、文化について考えさせられる作品だった。聞こえない人の聴力が回復する可能性を広げた人工内耳の埋め込み手術の賛否を巡る葛藤を描いたもので、世界の教育番組の発展を目的にNHKが毎年行っている国際コンクールのグランプリを受賞している。
作品には、二組の夫婦が登場する。一方はともに耳が不自由な夫婦で、聴覚に障害がある5歳の娘さんにも「あるがままを受け入れて育ってほしい」と思っている。もう一方は、生まれた息子が難聴であることを知って「可能性を広げてやりたい」と、人工内耳の埋め込み手術を決断した夫婦。こちらは両親とも聞こえるものの、お母さんの両親が聴覚障害者だ。
「ありのままを受け入れるべきだ」「そのうち人間はロボットになってしまう」といった埋め込みを拒む立場の意見と「子どもにできる限りの可能性をやりたい」「進歩を止めることはできない」といった手術を決めた立場からの意見が真正面からぶつかり合う。「あなたには聞こえない子を持つ親の気持ちは分からない!」「俺の人生はダメだというのか!」という激しい言葉が行き交うほどの議論は、聴覚障害者のおじいさんやおばあさん、周囲の人々を巻き込んで広がっていく。
その中でとても印象的なのは「将来、聞こえない人が一人もいなくなったらどうするの?」という手術反対側の一言だ。「えっ?」と思ったけれど、耳の不自由な人の間には「聞こえない人の文化」があるという。「聞こえるようになった子どもたちはそれを忘れてしまうのではないか」「自分たちを理解する人がいなくなるのではないか」という危惧がそこにはあった。
極めて意外な視点だったが、たとえ社会の少数派であろうと、当事者には、聞こえない人だけが持つ手話やコミュニティーへの高い誇りがあった。それは、日本人であることの誇りとか、生まれ育った郷土に対する思いといったものと同じだ。
生まれながらに耳が不自由な人たちは、話す能力は持っていても、聞こえないために二次的に話せなくなることが少なくない。それだけに、子どもに最大限の可能性を残してやりたいと思うのは親として当然の気持ちだろう。でも、人工内耳の埋め込みに反対する意見が、聞こえない人が持つ文化的な背景から出てくるものであれば、それを否定することはできそうにない。
例えば、日本には古くから鯨を食べる習慣があるけれど、世界的にはマイナーな文化だけになかなか理解してもらえない。お隣の韓国では伝統的に犬の肉を食べるけれど、日韓ワールドカップのときには、国際サッカー連盟が「動物虐待をやめさせろ」としてすったもんだがあった。どちらも古くからの食文化だけに、一方的な価値基準で決めつけられることには抵抗がある。
異なる文化の衝突は、その善し悪しを一つの物差しでは判断できないことに解決の難しさがある。そう考えたら、むしろ解決しようなどとは考えずに、共存する道を探るほうが現実的なのかもしれない。
自分とは違うからこそ、相手に興味がわいてくる。時に面食らったりすることもあるけれど、異なるものを排除するのではなくその違いを楽しもうと思えたら、目の前の世界が変わってくるはずだ。
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