20世紀の遺産

バリアフリー観察記2002年

20世紀の遺産

 手鏡、アイシャドー、口紅、マスカラ……。満員電車の中で変身セットを次々と取り出して忙しそうにしている若い女性がいる。その作業の一部始終はとても興味深いものだけれど、不用意に隣から眺めていてコンパクトの鏡の中で目が合ったりすると、何とも気まずい思いがする。
 こうした人前での化粧は、彼女たちより年上の女性にとっては「はしたない」と感じるもののようだ。今はまだ顔や髪、爪のケアが主流だけれど、今後、それがどこまでエスカレートしていくのかと考えると、興味を引かれながらも想像をためらってしまう。

 年齢による考え方の変化を、自分自身で体験したのはディスカウントストアーに展示されているマッサージ機の上だった。背筋をググーッと伸ばして恍惚感に包まれながら、ふと「以前は人前で試すのが恥ずかしくてこんなことはできなかったなぁ」と思ったりした。

 自分の中に偏見があったんだと気付いたのは、仕事帰りの電車の中。携帯用ラジオのニュース番組が、自閉症の人たちとの交流会が開かれるという話題を伝えたときだった。
「自閉症の人が健常者と交流することで、自閉症の人たちが社会に出るきっかけができると思います」
 代表者のコメントに一瞬「ん?」と思った。「自閉症の人が健常者と交流する」という言葉が、意外に思えたのだ。自閉症の人を障害者に置き換えると、障害者は健常者に交流される人、健常者は障害者と交流する人というイメージが自分の中にあったことに気付いた瞬間だった。
 同じような話題は、ニュース番組や新聞記事で頻繁に紹介されているけれど、それ以来、ちょっとしたニュアンスの違いに、原稿を作った人の心の中が見え隠れすることがある。それは「子どもたちが障害者と交流」と「子どもたちと障害者が交流」といった違いだ。

 男性が家事や育児に積極的に参加するようになったり、離婚をして一人で子どもを育てるシングルマザーが珍しくはなくなったり、性同一性障害による性転換が認められるようになったり、転職が後ろめたいことではなくなったり……。これまでは考えられなかったことが決して特別なことではなくなり、社会的にも受け入れられるようになってきた。厚底のブーツをはいて、女性のほうが男性より背が高いカップルが闊歩している様子を目にすると、時代は確かに変化している、と思ったりする。

 こうした変化に意識の変化が追い付かなければ、いずれは差別や偏見を持った「20世紀の遺産」として時代に取り残されてしまいそうだ。今の時代、ロックやエレキギターを愛する若者を「不良だ」なんて真顔で言ったら笑われるし「偏差値の高い大学を出ればいい会社に就職して幸せになれる」なんて、もう言わなくなった。お茶くみを女性に続けさせていれば、職場での差別問題の対象になったりもする。自分は昔から何も変わっていないのに、まわりからは「それはおかしい」と言われるようになる。

 一人ひとりの価値観や考え方が受け入れられるようになって、社会が変化していくスピードはますます加速していきそうだ。これから先、自分の意識が社会の変化にどこまでも追い付いていけるかには自信がない。そんなことを考えていると「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」なんて一節が浮かんできた。福沢諭吉が『学問のすすめ』の中で記した原則。これが自分の中で確立すれば、社会がどんなふうに激変しても、自分は変わらずに差別や偏見のない人間でいることが可能だ。

 平等を説いた19世紀の教えが、社会の変化を気にすることなく、平穏に暮らしていくための道筋を示していた。

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Last Update : 2003/02/24