自分とは無関係に思えていた少数派の立場を実感したのは、障害をテーマにした雑誌を作っていた時期のことだった。会う人のほとんどが障害当事者、その家族、関係者という中で「障害者について無関心だった健常者」という立場は、心細く肩身が狭いものだった。福祉や障害についての無知からくる不安や自信のなさが、その思いに輪をかけた。多数派の中でポツンとしているのは、結構つらい。
「期せずして少数派」という場面は、日常的に起こっている。公共の場での禁煙が進められ、駅の分煙コーナーに寄り添っていたころは、いかにも肩身が狭かった。
少し前なら、ワープロを使えなくても、パソコンを操作できなくても、それは英会話ができないことと同じぐらいに大したことではなかった。でも、もうそんなことを言ってはいられない。ビジネス文書はパソコンで作られ、インターネットは日常的な情報収集に不可欠で、パソコンを使いこなすことはコピーを取ることと同じくらい基本的なことになっている。アッという間に誕生してしまった情報通信社会から、はじき出されかけている人たちがいる。
学習指導要領が改訂されて、公立小学校でも英語教育が行われるようになっている。インターネットが世界的に普及してきた中で、日本人自体が地球上の少数派になることを防ぐことが目的だ。20年もすれば、抵抗なく英語を使いこなす人たちが会社に入ってくる。今よりグローバル化したビジネスの世界では、英語でコミュニケーションをするのが当たり前の時代がやってくるわけだ。
能力主義が今より進み、英会話ができない私は、目の前にいる我が子にさえいとも簡単に追い抜かれてしまうのかもしれない。
多数派、少数派という立場は、自分の意志とは無関係に、しかもコロコロと変化する。自分は何も変わらなくても、取り巻く社会が変化することでも一変してしまう。居心地のいい立場は保証されたものではなく、自分が気付かないうちにいつの間にか少数派になってしまうことは、決して珍しいことではない。そのことに気付いている人たちこそマイノリティ、弱者と呼ばれている人たちのよき理解者になれるのではないか。
自分は多数派なのか、健常者は多数派なのか、少数派は本当に少数派なのか……。
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