バリアフリーな栗

バリアフリー観察記2002年

バリアフリーな栗

 ボランティアをしたいのだけれど、何をしたらいいか? と聞かれることがある。この質問に直接的に答えることはできないけれど「取りあえずは身近な不便さや不自由さを一つ減らしてみては」と答えることならできる。

 近所に一人暮らしの老人や車いすを使っている人がいれば、玄関に届いている新聞を家の中まで届けたり、ゴミ捨てを手伝ったりすることで、その人の不便さは一つ減るだろう。ついでに、郵便物を預かってポストに投函してもいい。そうして毎朝顔を合わせることで、今日も元気か分かるようになり、具合が悪いようなら買い物を手伝ったりすることもできるだろう。
 ここまではできなくても「お手伝いできることがあったら、声をかけてくださいね」と伝えておくだけでも十分にボランティアだと思う。

  東に病気の子どもがいれば行って看病し、
  西に疲れた母がいれば行ってその稲の束を負い、
  南に死にそうな人がいれば行って怖がらなくてもいいと言い、
  北に喧嘩や訴訟があればつまらないからやめろと言ってあげる。

 そんな宮沢賢治にはなれなくても、かゆいところに手が届く孫の手のような存在にはなれそうだ。

 あるとき「バリアフリーな栗」なるものを紹介された。あらかじめ皮をむいた天津甘栗を袋詰めしただけの商品なのだけれど、これが意外な反響を呼んでいるという。
「これなら、自分にも食べやすい!」
 手が不自由な人たちから、そんな声が上がっているという。皮をむくのが面倒という一般のニーズに応えたことで、図らずも、隠れた栗ファンのハートをガッチリとつかんだのだ。

 ここで使われているバリアフリーという言葉の意味は、専門的な定義や概念といったものとは違っているのかもしれない。でも、身近なところにある不便さや不自由さを一つずつ解消していく小さな作業が、意外に大切なのだと教えてくれている。高齢者のために、障害がある人のために何か特別なことをしようと背伸びをしなくても、自分が普段していることの中でできることをすればいいのだよ、と。

 企業なら、ビジネスの中でアイデアを凝らせばいい。手が不自由な人は食器洗いが苦手なため、電子レンジで温めればそのまま食べられる冷凍食品や加工食品を活用している人が少なくない。そう考えたら、これらの食品の栄養価を高めることだって、障害がある人の生活を向上させることに直接つながるはずだ。

 自分にとって身近で無理なくできること、自分にしかできないことが、一人ひとりの身のまわりには必ずあるはずだ。一つひとつは小さなことだけれど、社会全体のバリアフリーを考えたら、そういったことの積み重ねが一番大きな力になるような気がする。

トップへLink

Last Update : 2003/02/24