牛乳パックに小さな切り込みが入れられるようになったことを雑誌で知った長距離トラックの運転手さんが電話をかけてきてくれたと、切り込みの規格化に力を尽くした共用品推進機構の事務局長さんが知らせてくれた。身内に見えない人がいたのかな、と思ったが、そうではなかった。
受話器の向こうでは、運転中に缶や紙パックのジュースを飲むときに、手探りでフタを開けたり、飲み口を間違えて服にかかったりして運転席がパニック状態になることがある、と話していたそうだ。そして「目の不自由な人たちも同じようなことを不便に感じているんだって、初めて知ったよ」と、運転席からかけてきてくれたのだという。
雑誌の記事に共感することはあっても、その思いを直接電話をして伝えることなんてそうそうあるものではない。運転手さんがどれほどうれしかったのかを想像すると、こちらまでうれしくなってきた。
共用品の考え方が広がっていくためには、障害当事者以外の人の共感を得ることが必要だと常々感じている。そのために有効なのは、みんなが感じている共通の不便さが共用品によって解消されることを、日常の場面を挙げながら説明すること。その意味で、運転手さんの話は象徴的だった。
でも、実際にはこれがなかなか容易ではない。共用品が障害者や高齢者の不便さを解消することは説明しやすいのだけれど「みんなが感じている不便さ」は、それを説明したいと思っている私自身が自覚していない場合がほとんどだ。つまり、無意識に感じている不便さなのだ。紙パックの開け口にしても、言われてみれば「確かにそうだ」とは思ったものの、それを「不便である」などと意識してはいなかった。
自分自身とバリアフリーや共用品との接点を想像してみると、結構楽しい。
休日に、家族そろって朝食をとっていたときのこと。息子が「これ空けて」と、いちごジャムのビンを持ってきた。1週間前に買ってきたのに、固くてママでは開けられなかったという。こんなとき、目の前に大好きなものがありながら食べられない口惜しさは、一人暮らしの高齢者や手が不自由な人のそれと似ているかもしれない、と思う。
ボタンを押した瞬間に傘が勢いよく「ボン!」と開いた瞬間は、片手が不自由な人もワンタッチで開く傘を便利に感じているに違いない、と想像してみたりする。ぬれた傘は電車の網棚に上げることができずに手で持つけれど、運良く座席に座れても、これでは本を読もうにもページをめくるのが大変だ。片手が不自由なら自由な手がふさがってしまうだけに、彼らも車両に傘の置き場所を作ってほしいと思っているに違いない――といった具合だ。
ジョンレノンの名曲「イマジン」では、国なんかないと想像してごらん、財産なんかないと思ってごらん、と歌っている。そうすれば、世界は一つになれるのだと。これは、バリアフリーな社会を実現するための考え方と共通していると思う。
バリアフリーといった言葉はすでに定着したけれど、同時に、バリアフリーは障害者や高齢者だけのものだという誤解も定着しつつあるようだ。だからこそ、想像を膨らませて、バリアフリーと自分自身の接点を見付けたい。
自分一人の力では何もできないなんて無力感を感じることもあるけれど、そんなときは、自分と同じことを考えている人がほかにもいるはずだと、想像してみたりする。
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