オリンピックには魔物が棲む――。いつのころからか、そんな風に言われるようになった。普段は余裕を持って成功しているジャンプでミスをしてしまうフィギュアスケート選手、優勝間違いなしと見られていながらスタート直後に腹ばいに転んでしまうスピードスケート選手……。普段なら起こり得ないことが、オリンピックでは確かに起こる。そんなことを見聞きしていると、魔物は確かにいるのだと思えてくる。
この「魔物」の正体を明確に解説しているのは、元スピードスケート選手の黒岩彰さんだ。1983年に世界スプリント選手権で日本人初の総合優勝を果たし、翌84年のサラエボ五輪では金メダル候補として一躍脚光を浴びた。ところが、日本中が注目した本番の結果は第10位。日本にとって唯一の金メダル候補だった黒岩さんには当日のレース直前まで取材攻勢が続き、コンディションを維持することができなかったのだ。
その彼が、リベンジの舞台となった4年後のカルガリー大会では銅メダルを獲得して表彰台に立った。それを可能にするために、オリンピック本番に臨む自分の姿を、1日に何度も頭の中に思い浮かべた。想像を絶するほどの取材攻勢を受けている自分、大歓声の中でスタートを前にしている自分、アウトコースからスタートする自分、リードを許した相手選手を冷静に追いかけている自分、最終コーナーをきっちり回ってゴールを目指している自分……。考えられるすべてのことをリアルに感じられるまでその作業を続けた結果、本番では「自分がイメージしていた通りの光景だ」と思いながら平常心でレースに臨むことができたという。これが、日本に「イメージ・トレーニング」が導入された最初だった。
その黒岩さんが、ある席でこう話していた。
「魔物は心の中に棲んでいる。それを克服しなければどこにいても現れる」
黒岩さんの体験から学べることは、それを見る人の立場によっていくつかある。選手本人なら「イメージ・トレーニング」の有効性を感じるだろうし、マスコミに携わる人なら自身の取材のあり方を省みるかもしれない。だが、もっと根本的なことは、社会や環境を変えることはできなくても、自分を変えることで結果を変えることができるということだろう。
容姿であったり、経済力であったり、境遇であったり――他人と比べれば見劣りがすることはたくさんある。恋人ができなかったり、就職先が見付からなかったり、自分の意見が通らなかったりすると、ついついい他人をうらやんだり恨んだりしてしまう。でも、他人のせいにしても解決しない問題はたくさんある。それならば、自分の心に棲んでいるかもしれない魔物に目を向けてみることは、新たな活路を見いだすための有効な方法だと思えてくる。
自分の中に魔物を見付けて退治することで、悩みの一つや二は解決することだってありそうだ。どんなに目を凝らしても、魔物の姿形を見ることはできない。でも、それが確かに存在していることを実感している人がいる。黒岩さんがマスコミを変えることに全力を使ったら、オリンピックでメダルを取ることはできただろうか。
トップへLink