障害者の自立、体育教師の自立

バリアフリー観察記2003年

障害者の自立、体育教師の自立

 若い先生が入ってきたほうがいいのだけれど、それでは自分の仕事がなくなってしまう――。年配の体育教師の中には、そんな思いを持っている人がいる。実技の授業で手本を見せようにも、若い先生には到底かなわないというのだ。
 本来なら、実績を積むほどに経験値が上がり、指導力は上がると考えるのが普通だろう。だが、体育に限っては指導歴を重ねるほど質が低下するというのは、何ともおかしな感じがする。
 
 例えば、陸上競技の100メートル走で日本記録や世界記録を出す選手がいるけれど、彼らの指導者は、その選手より速く走ることはできない。どうやら、高橋尚子選手が小出義雄監督を必要としているように、実技ができることがよい指導者であることの絶対条件ではないようだ。数学や英語、社会や国語といった教科の先生と同様に、定年まで立派に体育教師を務めることできる方法は必ずあるはずだ。

 目が見えない人に会って「旅行が趣味です」などと自己紹介をされて面食らった。「見えないのに何が面白いんだろう」と思ったのだ。ところが、ボランティアの人に案内をしてもらいながら、周囲の音を聞きながら風景を想像したり、季節の香りをかいだり、名物の味を堪能したり、有名な銅像や建築物に触れてみたりと、あらゆる感覚を使って楽しむのだそうだ。

「自立」というと、何でも自分一人でできることだと思いがちだ。だが、これが「自立」の絶対条件であるならば、重度の障害がある人は、一生涯自立することはできない。そこで、障害当事者やその家族たちは、長い時間をかけて一つの考え方を導き出した。
「自分の意思によって人生を決めることができれば、それは自立しているといえる」
 一人でトイレに行けるか、食事を取れるか、外出できるか、生活費を稼げるかといったことは関係なく、ボランティアやヘルパー、家族という協力者を得ることで生き甲斐を持ち、趣味を楽しみ、自分らしい生き方ができれば、それは自立しているといえるというわけだ。

 何もかも一人でできることが「自立」の絶対条件ではない――この考え方は、実に示唆に富んだ人間観だ。と同時に「若い先生にはかなわない」と考えている体育の先生にもぜひ伝えたいと思う。
 自分の体を動かすことはできなくても、走ることが得意な生徒に手本を見せてもらえば陸上競技の授業はできるし、バスケットボール部のキャプテンにフリースローを見せてもらえばバスケの授業もできそうだ。サッカーのドリブルは、その辺の若い先生より現役のサッカー部員の方がよほど器用にこなすだろう。

 見本を見せられないからといって、体育教師として自立していないとか、失格だとはいえない。むしろ、状況に合わせた指導法を考え出せない怠慢さのほうがよっぽど失格だ。体が動かなくなったって、若い先生以上に生徒を上手に動かしながら、たくさんのスポーツを楽しく指導できるほうがいいに決まっている。

 こんなことを考えながら自分自身の日常をふり返ると、フッと、肩やひじの力が抜けたような気がした。

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Last Update : 2003/03/31