日本が世界に誇るロボット開発は、人間型を目指して着々と進められている。少子高齢化が現実の課題になっているだけに、医療や介護は、その活用が特に期待されている分野だ。表情を付けたり、まばたきをさせたり、あいさつをしたり……。スムーズにコミュニケーションができるように、より人間っぽく、親しみやすくする工夫が凝らされている。
歩いたり走ったり、つまんだり握ったりと、人間と変わらない身体機能をロボットに搭載するのは、日本の技術力をもってすればそれほど難しいことではなさそうだ。ヒトの遺伝子の解析が進められたり、羊やネズミのクローンが誕生したりと、ほんの少し前までは考えられなかったレベルの研究が進んでいる様子を見聞きしていると、外見上は人間と区別がつかないロボットがいずれは誕生するのだと思えてくる。だが、それで人間らしいロボットが完成するとは思わない。
アテネ・オリンピックを見ながら、人間とロボットについて考えた。
アテネのマラソンコースは、22キロにも及ぶ登り坂の後に、ゴールまで10キロの下り坂が続く極めて過酷な設定。その上、レース当日は気温が30度を越える厳しい条件となった。優勝候補は、2時間15分25秒の世界記録を持つイギリスのポーラ・ラドクリフ選手。だが、金メダルを手にしたのは、ラドクリフ選手より持ちタイムが6分も遅い野口みずき選手だった。
女子マラソンの高速化が急加速しているが、その先頭に立っているのがラドクリフ選手。だが、平坦なコースで男性のペースメーカーを前に走らせながら世界記録を更新する姿は、なんとも機械的でつまらないと感じていた。そのラドクリフ選手が36キロ地点で棄権。大舞台で完走さえもできずに涙を流した姿は、皮肉な形でスポーツの魅力を再認識させた。
アテネ五輪の陸上競技では、フライングの判定を巡って男子100mのレースが30分以上も中断する出来事もあった。従来は「同じ選手が2回フライングをした場合」に失格となっていたものが、2003年からは「(1回目とは別人でも)2回目にフライングをした人」が即失格するというルールに変更され、1回目にフライングをした選手以外には、ただの1度の失敗も許されなくなった。問題のレースでは、1回目にはフライングをしていない2選手が同時に失格。機械的な競技運営に対してうっ積していた怒りが、この2選手以外でも爆発したのだ。
人間の魅力は、機械的な方法では測定し得ない不完全さにあると思う。ロボット開発にとってこの不完全さを追究することは、完ぺきさの追究より難しいのではないだろうか。なぜなら、最もロボットらしくない機能になるからだ。
電車のなかで子どもに大声で泣きわめかれたときには、背中にボリュームがついていたらどんなにいいだろうと思ったりする。帰りの電車でぐずつかれ、言うことを聞かずに暴れられたときには、折りたたんでかばんにしまい込んでしまいたいと心底思う。でも、そんなことが本当にできる便利な存在であるならば、息子たちへの感情は、今とは全く違っているに違いない。
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