「ずっと前から『ジャイアンツに残ってプレーしてくれないか』という言葉をいただき、(決断を)伝えることが心苦しかった。自分自身の夢、プレーしたいという気持ち――。今年1年、チーム、チームメイト、ファンに対して、そういう気持ちは見せられないし、僕自身、自分のわがままに対して、ふたをして考えないようにしてきた」
2002年11月1日にメジャーリーグへの挑戦を突然に発表した松井秀喜選手のコメントに衝撃を受けた。彼がプロ野球選手の中でも特にファンを大切にしていることは知っていたが、それが本物なのだと実感した。
プロフェッショナルを辞書で引くと、それを本業としている専門家のことだと定義されている。だが、松井選手のコメントを聞きながら、相手のことを第一に考えられる人のことだと思うようになった。
スポーツの世界では、「プロ」と「アマチュア」は厳密に分けて考えられてきた。長らくアマチュア選手しか出場することが許されなかったオリンピックでは、人力車の車夫がマラソンに参加できるのか、体育教師やスポーツ・インストラクターはどうかといったことが、真面目に議論されたりしたほどだ。
だが最近、職業としているか否かによってプロとアマを区別することに違和感を感じる選手たちが増えている。スポーツを本業にしているプロ選手も、社員の肩書でオリンピックを目指しているアマチュア選手も、その競技のトップを目指している点では、何ら変わらないというのだ。プロか否かの違いは、取り組む姿勢や意識の高さの違いだという。
アマチュアの野球選手の中にも極めて高い意識をもって取り組んでいる選手がいる。この考え方に従えば、彼らは「プロ野球の選手」ではないけれど「プロの野球選手」と言うことができるわけだ。
障害当事者やその家族といった人たちは、障害についての知識も経験も人脈も豊富。関心だって高い。言ってみれば、障害者のプロだ。同じ土俵に立ったら、プロと素人では立場が違いすぎて話になりそうにない――。そんな風に思い始めたものの、ハタと気がついた。これといった不自由を感じることなく36年間も暮らしてきた自分は「健常者のプロではないか」と。以来、これならだれもが同じプロとして、バリアフリーについて考えることができるのではと思えてきた。
行ったこともない宇宙への夢や希望、憧れを語ることはできるのだから、バリアフリーについても、自分なりの立場で考えを伝えることはできそうだ。
でも、単に障害があるというだけでは十分ではないし、何十年も不自由なく暮らしてきたという実績だけでも「プロ」を名乗るには不十分だ。何しろスポーツ選手ならファンのことを、大工さんなら施主さんのことを、八百屋さんならお客さんのことを、ドライバーなら歩行者のことを、といった具合に「相手のことを第一に考えられる人」であることが重要だからだ。
世の中に障害者のプロと健常者のプロはたくさんいる。その中から、相手のことを最大限に考えながら自分の能力を最大限に発揮する「プロの障害者」と「プロの健常者」が増えてきたときに、お互いの理解は今よりグッと深まると思う。
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