現実主義の落とし穴

バリアフリー観察記2003年以降

現実主義の落とし穴

 イラクのサマワに自衛隊が出かけたり、ロシアのチェチェン共和国で過激な独立運動が行われたり、巨大津波が押し寄せたインドネシアで20万人以上が被害に遭ったり…。自分では意識しなくても、世界中で起きていることが次々と目や耳に入ってくる。それはテレビやラジオだけではなく、電車の中の文字放送だったり、街頭での演説であったり、経路はさまざまだ。

 ところが、地球儀を手にしても、なかなかニュースの舞台を見つけることができない。アラビア半島を目印にしてイラクの見当をつけることができても、国名が書かれていなければ、右隣のイランや左隣のシリアと間違えてしまいそうだ。世界一面積が広いロシアからチェチェンを探しだしたときには、テレビ画面はとっくに別の話題に切り替わっていた。
 戦地の子どもたちの映像を眺めながら、戦争について考えたりすることがある。その国や地域が地球上のどこにあるのかは知らないけれど、そこでどんなことが起こっているのかをよく知っていたりするのは、なんとも不思議な感じがする。

 インターネットや電子メールといったITは“物事の現実感を乏しくさせた”と言われることがある。バーチャル・リアリティ(仮想現実)という言葉がインターネットの普及と同時に浸透したことで、ネットビジネスが「虚業」と揶揄されたりすることもある。会ったことがない人とメールを交換しただけで恋に落ちたり、自殺について話し合った末に集団でそれを実行に移したり、誘拐した少女の写真を家族に送り付けたり…。これまでにない奇妙なことが起こっている場面にこれらがかかわっていると、そのインパクトがマイナスのイメージを植え付けるのかもしれない。

 でも、“現実感のなさ”が事件の理由に挙がるたびに、自分が実際に体験したことだけが現実なのだろうかと思う。海外で行われているオリンピックを、テレビを通して見ることもある。あるときは生中継で、またあるときは録画中継だったりもする。探査船が深い海の中を映し出した映像や無人探査機が金星や火星の表面を撮影した写真を見て、ワクワクとしたりすることもある。それらは現場で直接見たものではないけれど、レンズの前で実際に起こっている現実だ。

 幼児虐待をテーマにしたテレビ番組を見ていたときのこと。スタジオの女子高校生が「自分が好きで産んでおきながら、虐待をするなんておかしい」と発言したのに対して、「確かにその通りですね」と男性司会者が相づちを打った。それを見た妻が、ひどく憤っていたのが印象的だった。こちらの都合などお構いなしに昼夜の区別なく泣きわめく子どもを実際に育ててもいない人に、自分たちの気持ちを一般論で片づけてほしくない、というのだ。
 つい最近、口答えをした息子二人を包丁で刺し殺した母親に、懲役刑が下されたというニュースがあった。胸や腹を何度も刺された6歳の息子が死に際に発した一言が「お母さん、ごめんね」だったと聞いたとき、子を持つ前ならば、これほど涙が出ることはなかっただろうと思った。

 自殺に反対することができるのは、自殺経験者だけだろうか。現実に体験したことしか信じることができないのなら、人間は戦争を繰り返すことでしか反省をすることができないことになる。だが、そんなことはない。必要なのは現実感のなさを問題視することではなく、過去の経験に照らしながら想像力で情報に現実感を加えるための、実体験の機会を日常のなかに増やしていくことではないか。

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Last Update : 2005/01/30